なぜ『ボーダーライン』は観ていて不安になるのか?観客の視点を奪う映画体験を徹底考察
2015年製作の映画『ボーダーライン(Sicario)』は、
「面白い」「完成度が高い」と評価される一方で、
どこか観ていて落ち着かない、不安になる映画でもあります。
ストーリーを追ってもスッキリしない。
誰が正義なのか分からない。
主人公がいるはずなのに、物語を動かしていない。
本記事では、『ボーダーライン』が観客に与えるこの違和感を、
「観客=主人公」という視点から掘り下げていきます。
作品データ
原題:Sicario
製作年:2015年
上映時間:121分
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
日本公開:2016年4月9日
『ボーダーライン(Sicario)』は誰の物語なのか|理解できないまま進む映画の構造を読み解く
主人公ケイトは「中心人物」ではない
表向きの主人公は、FBI捜査官のケイト・メイサーです。
しかし映画を観終えた多くの人が、こう感じたはずです。
「彼女、何も決めていないな」
ケイトは物語の中心に“いる”だけで、
物語の主導権はほとんど握っていません。
作戦の全貌は知らされない。
判断を求められない。
気づけば常に、後追いの立場に置かれています。
そして我々観客はケイトと同じ位置に立たされている
ここが『ボーダーライン』最大の特徴です。
この映画では、
観客が知る情報量は、ほぼケイトと同じに制限されています。
なぜこの作戦が行われているのか
誰が本当の指揮官なのか
どこまでが合法で、どこからが違法なのか
観客は常に「説明されない側」にいます。
つまりこの映画は、
主人公を通して世界を理解する構造ではなく、
主人公と一緒に“理解できない世界に放り込まれる構造なのです。
主人公はなぜ何もできないのか?置き去りにされる不安の正体
なぜこんなにも不安になるのか
不安の正体はシンプルです。
視点を失っているから。
映画は通常、
「誰かの判断」「誰かの感情」を軸に進みます。
しかし『ボーダーライン』では、
判断は別の場所で下され
感情は切り捨てられ
理由は説明されない
観客は、
「今どこを見ればいいのか分からない状態」に置かれ続けます。
この視点喪失こそが、
本作をただの麻薬戦争映画にしない最大の仕掛けです。
本作のタイトルにもある ボーダーライン(境界線)は、どこに引かれているのか?
タイトルの「ボーダーライン」は、
単なる国境線ではありません。
正義と悪の境界
法と無法の境界
公と私の境界
それらがすべて曖昧なまま、物語は進みます。
ケイトは「守る側」の人間ですが、
その立場がどんどん無効化されていく。
そして観客もまた、
「どちら側に立っているのか分からない」状態に追い込まれます。
余談アレハンドロはなぜ“魅力的”に見えてしまうのか?
物語後半、強烈な存在感を放つのがアレハンドロです。
彼は冷酷で、暴力的で、
決してヒーローではありません。
しかし、惹かれる。
めちゃくちゃかっこよく見えてしまう。
彼に物語の推進力を感じてしまう。
これは危険な感覚です。
なぜならその時点で、
私たちは「秩序」ではなく
「結果を出す側」に感情移入してしまっているからです。
映画は、その瞬間をあえて止めません。
ラストシーンが突きつけるもの
ラストでケイトは、
ある「署名」を迫られます。
それは単なる書類ではなく、
この世界を受け入れるかどうかの踏み絵です。
彼女が何を選んだのか。
それ以上に重要なのは、
観客である私たちは、
どこで線を引いたつもりになっていたのか
という問いです。
まとめ|『ボーダーライン』は体験する映画である
『ボーダーライン』は、
理解する映画ではありません。
観客が主人公と同じように、
知らされず
迷い
置いていかれる
その体験自体が、
この映画の核心です。
だからこそ観終わった後、言葉にしづらい不安だけが残る。
それは失敗ではなく、
この映画が正しく機能した証拠なのだと思います。
他にも考察しています。
観客の視点が奪われ、理解できないまま物語が進む感覚は、
キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』にも通じるものがあります。
▶︎ 徹底解剖『アイズワイドシャット』衝撃作をいくつかのパターンで考察してみました。
「説明されない」「整理されない」という不安感は、
小説『ガダラの豚』が持つ読書体験ともよく似ています。
▶︎ 『ガダラの豚』は映画化できるのか?映像化が不可能と言われる理由と、それでも観てみたい異様な世界
観客が置いていかれ、「答えが提示されないまま終わる」構造は、
『アンダー・ザ・シルバーレイク』でも強く感じました。








