星野 智幸の『俺、俺』を読了。究極の自分探しはここにある。
自分って一体何なのでしょうか?
ひと昔前に流行った自分探しって、あれ実はトンデモナイことだったんじゃ……?
実は危険な行為?自分探し小説『俺、俺』を読み終えて。
シュールな展開だけど笑えない恐ろしさ。
この物語をどう処理するべきか?
まずは簡単にあらすじを。
あらすじ
主人公永野均はある日ふとしたことから携帯電話を拾います。その携帯電話の着信に気がつき、ふとした出来心から携帯電話の持ち主になりすまし会話の流れでオレオレ詐欺めいたことをしてしまいます。
そしてそれが上手いこと進んでしまい、ちょっとした大金を手に入れることが出来たのですが、その日から携帯電話の持ち主としての「俺」になってしまいます。
見知らぬ母が突然現れ、パニックになって実家に逃げるもそこには「俺」がちゃんと存在していて…
自分自身だからこそ味わえる安堵感。
前半の展開は日常生活がじわじわと不思議な世界へ変質していく様がとても引き込まれました。
ありきたりな生活感が突如異質な空間になります。
しかしこの作品は読んでいてどんどん混乱していきます。
主人公永野は携帯電話の持ち主大樹になり、永野均もちゃんと存在しています。
つまり俺は俺と出会い俺の記憶は新しい俺の大樹のものへと書き換えられていきます。
そうしている間にも新しい俺が現れ、俺は俺たちと過ごすことで不思議な安堵感を覚えることになります。
それは他者ではなく、自分自身だから。
他人と過ごす際に必要な気遣いや不安は皆無です。だって俺たちは皆自分なのだから。
思うことも感じることも全て同じです。
この俺たち3人は一緒に過ごす時間をとても穏やかに共有していきます。
しかし、次第に日常生活の中で俺たちが知らない俺たちが生まれていき3人の幸せな時間も終わりを告げます。
見知らぬ俺たち、自分の側面に脅える。
自分自身の殻の中でぬくぬくと過ごせたのはそれが他人ではなく、自分自身だからこそです。
他人という未知の領域を持った存在はある意味ではとても脅威となります。
だから自分自身だけで暮らしていけたら、それはとても楽チンで幸せな世界です。
しかし、それは良い面だけを見ていたから。
自分という存在には必ず醜い部分も残酷な一面も持ち合わせているのです。人間ですから。
完璧な人間が存在しないように、完璧な自分というのもまた存在しません。そしてそのことに気がついた時、他人よりも恐ろしい俺たちが増殖していきます。
他人ではわからない部分も自分自身では正確に感じることが出来ます。だから醜い俺を削除しようと考える俺は全ての俺たちから同じ考えを持っていることに恐怖し、初めて他人を求めるのですがその頃にはもう…
自分って一体なんなんでしょう?
一体、自分というのは何なのでしょうか?
相手から見える自分というのを自分と呼ぶのであれば、それこそ何人もの自分が存在することになります。
Aさんから見たワタシ。Bさんから見たワタシ。と
そしてやかましいことに自分というのは相手によって微妙に自分を使い分けることをします。
Aさんから見たワタシは優しめなワタシだが、Bさんから見たワタシは厳しめのワタシ。しかしCさんから見たワタシはAさんと対応する優しめよりもさらに優しい自分…
もう自分でも自分の持つ多面性に驚くことがあります。
そして当然醜い一面や残酷な部分を目の当たりにし、自己嫌悪に陥るのです。
これが自分です。
これが人間なのです。
たくさんの顔を持ち、社会に応じて使い分ける。
本当の自分なんて、存在しないのかもしれません。
絶えず変化し続ける雲の形のように、決して掴めるものではないのです。
この作品は人間として1番危うい部分をこれまた1番ナイーブな形に研ぎ澄ませた結果、ふいに心の奥深くに刺さってしまったような、痛みに似た感覚を感じました。
自分なんてないのかもしれない‥
煩わしいし、傷つくことになっても
自分を感じるためには他人が必要なんです。
ふと、そんなことを想いました。